Masukその低く落ち着いた声の主は、白群宗主の白漣であった。各一族の宗主の中でも年長者で貫禄のある白漣は、すっと手を挙げて発言の許可を求めていた。
「白漣宗主、なにかご意見でもおありですか?」
辺りが急にしん、と静まる。軽く礼をし、白漣宗主は顔を上げた。
「その方も公子のひとりとお見受けします。話を聞く限り、光架の民の血を引く藍歌殿の子であれば、資格は十分にある。他の一族のことに口を出すつもりはないが、奉納祭を続けるためには彼の力が必要なのでは?」
「お、お言葉ですが、この子にはそんな技術も能力もありません。ましてや貴重な四神の宝玉を浄化するなど、あり得ないことです」
慌てて姜燈はその提案に首を振った。
「では、この事態をどう治めるんだ? 奉納祭を中断するなど聞いたことがないぞ」
白群の隣に座していた緋の一族の若き宗主、蓉緋が肩を竦める。反対側に座る雷火や姮娥は、ただこの騒動を眺めているだけで口は出さなかった。
「ではこうしてはいかがだろう? 公子殿の言う通り代理として舞い、もし失敗するようならば罰を与えては?」
「それはいいな。能がないのにしゃしゃり出て来て場を乱したのだから、それ相応の罰を与えるのが妥当だろう。この奉納祭が前代未聞の延期となれば、金虎の威厳にも関わる」
口の端を釣り上げ皮肉そうに笑って、蓉緋は話にのってくる。真っ赤な衣はどの一族よりも派手で、そのよく通る良い声も目立つ。そんな中、同じようにすっと静かに手を挙げる者がいた。
「······その仮面を付けたまま舞うのですか? 顔を隠して舞を舞うなど、神聖な四神に失礼かと」
その低いがよく通る声の主に、大扇を広げて隣に座っていた白群の第一公子や、後ろに座っていたふたりの若い従者を含む、その場にいたすべての者が驚愕する。
(白群の第二公子は口が利けたのかっ!? )
と、その場にいた者たちはほぼ同時に、同じ言葉を心の中で叫ぶ。
「ははっ! こりゃあ面白いものが見れたぞっ」
手を叩いて大笑いをする蓉緋を無視して、白笶はそれ以上何も言わなかった。またざわざわと辺りが騒ぎ出す。
「静粛に、」
飛虎は場が静まるのを待つ。その間、無明をまっすぐに見つめて、仮面の奥の瞳を窺う。微かに真っ赤な唇の端が上がっていた。
(お前の思う通りになっていると?)
おかしいとは思っていた。その行動や言動に気を取られて、今の無明の状態を見逃すところだった。
(······霊力がほとんど感じられない)
何があったのかわからないが、それも関係があるのだろうか。仮面を外させるために誘導させている。そんな気がしてならない。
「父上、万が一失敗するようなことがあれば、俺はどんな罰でも受けます」
その言い方から察するに万が一にも失敗することはないのだろう。だがそれには大量の霊力が必要不可欠。しかし一度でも仮面を外せば、二度と元には戻せないし、その身がどうなるか予想もできない。
「無明を信じてみてはどうですか?」
ずっと黙っていた虎珀が落ち着いた声で囁く。
「········いいだろう。やってみるといい」
すっと立ち上がり、前へ出る。
歩を進めて舞台の上に立つ無明の前まで行くと、近くへ来るように促す。無明は立ち上がり正面の端まで寄って行くと、再びその場に跪く。
宗主が仮面に手を翳し印を切った瞬間、薄っすらと光を帯びた仮面が上から下にひび割れて、そのまま真っ二つになって落ちた。静寂の中にカランという乾いた音だけが広間に響いた。
「なんと······、美しい」
誰が言ったのか。思わず声が出たのか。大勢の前で晒されたその顔は、誰もがその言葉の通りだと大きく頷く。
年齢よりは幼さの残る童顔だが、色白で美しく整った顔は藍歌によく似ていた。伏せていた大きな瞳は翡翠色で、化粧はしていないのに唯一塗られた唇の赤い紅がよく映える。
危惧していたようなことは何ひとつ起きなかった。宗主は頷き、無明は小さく笑った。ほとんど空になっていた霊力のおかげだろうかきちんと制御はできている。
軽やかに立ち上がり、舞台の真ん中へ飛ぶと、笛を取り出し、口元に運ぶ。無明の霊力の源は呼吸。笛はそれを増幅させ広げる宝具。とんとんと後ろで交差させた右足のつま先を鳴らし、それを合図に澄んだ音色が奏でられた。
その笛の音は、いつものでたらめな調子の音でもなければ適当な音程でもない、優しくも儚い音色だった。舞を舞いながら笛を吹き、舞台の上をくるくると回る。高い音が鳴り響いた瞬間から、誰もが言葉を失った。そして目が離せなくなる。
派手さはないが華やかで、しなやか。美しい笛の音とそこから溢れる霊力に、東西南北に置かれた宝玉が光を湛えて反応する。
あっという間に半刻が過ぎ、最後にくるりと回転して舞台の上にそのまま片膝を付いたその時、四色の光の柱が邸の天井に向かって同時に伸びていくのが見えた。
『――――我らが主に、拝礼する』
(······どういう、意味?)
無明の頭の中に直接響くその声は、いくつもの声が重なり合っており、同時に舞台の周りから上がった歓喜の声が反響したかと思えば、どんどん遠のいていく不思議な感覚に囚われる。
『あなたが来てくださるのを、待っています』
『時を経て、再び契約を交わす時が来たのだ』
『待っておるぞ、神子』
『我らはあなたと共に、』
立ち上がって光の柱を見回す。頭の中に響いていた声はやがて沈黙し、光の柱も薄れていった。
ひらり、はらり。
視界を過ぎった薄桃色の花びら、一枚。
ゆっくりと落ちて来た花びらを手のひらにのせ、ふと天井を見上げる。そこには色とりどりの花々が舞い散る美しい光景が広がっており、まるで舞台に立つ無明を祝福しているかのようだった。
✿〜読み方参照〜✿
白漣(はくれん)、蓉緋(ゆうひ)、飛虎(ひこ)、藍歌(らんか)、虎珀(こはく)、姜燈《きょうひ》
光架(こうか)、白群(びゃくぐん)、緋(ひ)、金虎(きんこ)、雷火(らいか)、姮娥(こうが)
病鬼は朎明に至近距離で霊弓の矢を突き付けられても、身体を起こしただけで、にたにたと笑うばかりだった。含みがあり気味が悪いその笑みはどこまでも不気味で、この鬼の底知れないなにかを感じさせるにはじゅうぶんだった。「お前の主はどこにいる?」 とにかくなにか聞き出せることはないかと言葉を紡ぐ。これが本当に病鬼で、間違いなく特級の鬼なのか。 今のところそれを裏付けるものがない。守り刀の光で、いとも簡単に弾き飛ばされた事実がある。本当に特級の鬼なら、そんなものは効かないだろう。「なんのために都に疫病を齎した?」 朎明はつがえたままの三本の矢の先を向け、問う。やせ細ったその鬼は、にたりと笑いながらこちらを見上げてきた。「なんのためぇ? そんなのきまってんだろうぉが!」 はっと朎明は身構える。それは、目の前の鬼が急に手を掲げたからだった。思わず後ろに飛んでそれを躱し、そのまま矢を射る。矢は三本とも正確に病鬼に向かって行ったが、異常な身のこなしですべて外された。矢は霊力で作られた物で、地面に突き刺さるとそのまま消えた。「こうやってぇ、操るためさぁ」 病鬼の足元に赤黒い陣が浮かび上がる。陣から放たれたその赤黒い光の柱は一瞬にして闇色の空に伸びると、地面と同じ紋様が天に広がり都の上空を覆った。その光は悍ましい気配を纏い、辺りを不穏な空気に変えてしまう。(広範囲の陣····、なにをするつもりなんだ) 操ると病鬼は言った。嫌な予感が過る。「俺の本当の能力は、疫病を撒き散らす病鬼の力ではなく、俺が喰らった妖鬼の能力を操ること、」 朎明の横に、白笶と竜虎がそれぞれ駆け寄る。清婉は宿の中に避難させ、被害が及ばないように白笶が結界を施した。「俺の通り名は梟。お前ら術士からは特級の鬼と呼ばれている」 先程までのやせ細ったぼろぼろの衣を纏う病鬼の姿はなく、代わりにそこに現れたのは、美しい容姿をした青年のような姿の妖鬼だった。 分けられた前髪は頬にかかるくらい長いが短い黒髪で、瞳は漆黒。すらりとした細身だが背が高く、白笶と同じか少し高く見えた。消炭色の暗い灰色がかった衣を纏い、右腕に金の輪を付けており、切れ長の両眼の端が赤い色で彩られていて、男の姿をしているのに色っぽくも見えた。「梟····確か、」「ああ、変化を得意とする特級の妖鬼」 しかし梟という妖鬼は、玉兎で
先の方が少し癖のある、綺麗な黒髪をゆっくりと時間をかけて櫛で梳く。座らせている大事な"お人形"の髪を整える。あの時見たものと同じように、丁寧に左右のひと房を赤い髪紐と一緒に編み上げ、後ろでひとつに括る。残りの髪の毛は背中に垂らした。 着替えさせた白い神子装束は袖の辺りに赤い紐が飾られており、中に着せた赤い上衣が透けて見える。帯は上下に銀の横線が入っていた。 されるがままになっているその"お人形"の翡翠の瞳は、真っすぐに前を向いているがなにも映していないようだった。 ふたりの後ろにはもう一体、同じ背丈同じ髪形同じ格好をした人形が、椅子に座らせられている。違うとすればその人形の瞳はなく、真っ暗な空洞がふたつあった。 心なしか微笑んでいるようにも見える。滑らかな白い肌。真っ赤な口紅。まるで人間のように精巧なその人形は、今にも動き出しそうだった。「お化粧もして口紅も塗ってあげましょう。綺麗にして、みんなに見てもらいましょうね。ぜんぶ終わったらあの可愛らしい痣も切り取って、お人形に付けてあげる」 着替えをさせた時に見つけた、腰の辺りにあった五枚の花びらのような薄紅色の痣。蘭明は痣のあった腰の右側の辺りに触れ、ふふっと笑みを零す。 人形を完成させる。 ただそれだけのことで、あのひとの役に立つというのなら。「あなたが悪いのよ?」 化粧を施しながら目元を親指ですっと撫でる。藍歌に会った時からずっと気になっていた。あの瞳の色はどこまでも美しく誰とも違う色。しかし藍歌は金虎の宗主の第二夫人。手は届かない。 けれども、第四公子は違う。金虎の厄介者で有名だったこの子は、誰にも必要とされていないはずだった。あの日、奉納舞を舞った彼はどこまでも美しく唯一無二だった。あの場にいた誰もが思ったはずだ。 そんな子がなぜか紅鏡から外に出された。あのひとの言った通りになった。あの黒装束の女のような口調の男が、あの夜に言ったその通りに。「あなたは特別な子。あのひとはあなたを殺すなとは言ったけど、それ以外の事はしてもいいと言ったわ。自分の欲望のままに、」 完璧な人形を作る。それが自分の望み。あとはそう、"いらないもの"を処分するだけ。ぜんぶ真っ白にして、あとは自分の思うままに初めから作り直すことで完璧な存在となる。 自分を要らないと言った、宗主や妹のように。 要らないモノ
紅鏡。奉納祭の夜。 無明が毒紅の件で、虎珀の伯父である周芳の目論みを暴き、投獄された後に話は戻る。 その話は他の一族たちの耳に入ることはなかった。金虎の一族の中でも一部の者たちだけが知る事実として、他言無用と箝口令が敷かれたのだ。 そんなことが起きていたとは知りもしない蘭明は、毎年欠かさずに訪れているある場所に足を向けていた。奉納祭の後は静寂だけが残り、あんなに賑やかだった邸の中は今はとても静かだ。 金虎の本邸。 時折、本邸の従者たちとすれ違ったが、その度に丁寧に挨拶をする蘭明は従者たちの間でも好印象しかない。 彼女の行く先を知っている、長く金虎に仕えている老巧な本邸の従者たちは、誰一人として止める者はいなかった。手には菓子の入った、艶やかな黒が美しい小さな取手付きの重箱が握られていた。 向かう先は金虎の第一公子である虎珀の部屋だった。 本邸はとても広く、知らない者はもちろん来て間もない従者は必ず迷う。それくらい部屋の数も多く、入り組んだ廊下やわざと迷わせるための工夫がされてある。同じような通路がいくつもあって、そのどれかは行き止まりだったりするのだ。 宗主や夫人の部屋に関しては、お付きの従者しか解らないようになっている。公子たちでさえも、ひとりで訪れることはない。呼ばれるか予め約束をして、従者に案内してもらうのが規則となっている。 公子たちの部屋はそこまでは複雑ではないため、何度か訪れていれば迷うことはない。蘭明は幼い頃から仲良くしている虎珀に、毎年奉納祭の夜に逢いに行くのが恒例となっていた。「虎珀兄様、蘭明です」 部屋の前で声をかける。少しして、奥の方から足音が近付いて来るのが解った。扉の前でその音は止まり、「蘭明?」と声が返ってきた。「はい。手作りの菓子を持ってきました。よかったら一緒にどうですか?」 ゆっくりと開かれた扉に先に、いつもの笑みがあった。蘭明《らんめい》はその穏やかで誰にでも優しい笑みが、幼い頃から好きだった。「わざわざすみません、せっかく来てくれたのに。今日は少し疲れてしまって········ご一緒したい気持ちはあるのですが、」「いえ、私の方こそすみません。では菓子だけ置いていきます。よかったら食べてください。前に虎珀《こはく》兄様が好きだと言ってくれた、杏子の砂糖漬けです」 手に持っていた小さな重箱を渡し
竜虎たちと落ち合う前。 無明は白笶に背負われていた。最初は抱き上げられたのだが、それはちょっと····と困った顔で嘆願したら、結果このようなことになったのだ。 白虎との契約を終え、堂を後にしたふたりだったが、都の外れにある姮娥の邸までは距離がだいぶあった。夕刻はとうに過ぎており、薄暗くなってきていた。 今はその闇が降りつつある空の上から、都を見下ろしている。灯りはぽつぽつと点いているがどれも疎らで、本来の都であればもっと多くの光があったことだろう。ぼんやりと浮かぶ半月の方がずっと明るく感じた。 春も終わり夏を迎える今の頃は、この時間でもそこまで寒さは感じない。 薄墨色の空を行く白笶の首にしっかりと腕を回して、無明は下に広がる寂しい光を見つめていた。「白笶。これから俺が話すこと、ダメって言わないって誓える?」「······誓う」 理由は訊かずに、しかし少し間をおいて白笶は答えた。本当なら内容次第で止めていてもおかしくはないのだが、本人の中でもう決まっているのだろうことに対して、それをしても意味がないと解っていた。「竜虎たちの集めた情報も聞いてからでないと確信は持てないけど、少陰様の話を聞く限り、たぶん、狙いは俺だと思う」 耳元に近い位置にある無明の声は、どこまでも明るく、不安など全く感じさせない。そのすぐ後に肩に埋められた顔は、白笶には見えるわけもなく、ただ少しだけ左肩があたたかかった。「どういう風に相手が動くかは予想でしかないけど、たぶん、白笶たちは邸にすら入れてもらえないかもね」 わざわざ自分の邪魔をする者たちを招き入れるはずはない。宗主が不在ならば、無明が神子であることを知らない可能性の方が高い。それでも自分を狙う理由として考えられることは、ひとつ。「失踪した少女たちの特徴を聞く限り、今都で起こっているふたつの事件は、いずれもひとつの物事を覆い隠すためのまやかしみたいなもの」 病鬼による疫病と、少女たちの失踪。宗主が倒れ、三女も消えた。姮娥の一族で残っているのは長女と次女のふたり。そのどちらかがこの事件に関わっている。無明はそう確信していた。「会ってみない事にはなんとも言えないし、実際、少女たちがどうなっているかは俺にも予想できない。最悪の事態も考えられる····そうでないことを願いたいけど」「奉納祭の夜に、長女の蘭明が数刻ほ
清婉がまだ邸にいた頃、竜虎たちは宿の一室で向かい合っていた。一番広い部屋を用意してくれた女将の気遣いが、逆に心苦しい。なぜなら、三人はその広い部屋の真ん中に集まり、その他の空間が完全に無駄になっている。 朎明の月のように冴え冴えとした右目の下にある小さな黒子は、彼女の美しさに加えて神秘さを纏っている気がする。彼女が必要以上に言葉を発しないことも、その要因のひとつかもしれない。 しかしこの場で話さずに、いったいどこで話すというのか。白笶は案の定ただ座っているだけで、なにも言わない。なので竜虎はそれを聞き出すのは自分の役目と思い、自ら話を切り出す。「朎明殿、俺たちは怪異をなんとかしたいと思っている。こうしている間にも都は疫病で溢れ、行方知らずになっている妹君の身も危うくなる。こちらがすでに得ている情報と、君が知っている事、それを照らし合わせることで、もしかしたら解決できるかもしれない」 紫苑色の瞳は真っすぐに朎明を見つめ、なんとか堪えた声音は部屋にやんわりと響いていた。それが功を奏したのか、重たい口が少しだけ動いた。 彼女がここに残っている時点で、なにか言いたいことがあるのだと察してはいたが、言葉を紡いでもらうのに予想以上の時間がかかった。「姉上は、あの紅鏡での奉納祭以来、人が変わってしまった。正確にはその夜。姿が見えなくなって、私たちは姉上を捜し回ったのだけど、見つからなかった。しかし諦めて帰って来てみたら、いつの間にか姉上も戻っていて。私たちはそれで安心していたんだが······、」「なにか、変化があった?」 こく、と朎明は頷く。薄桃色の紅に彩られた唇を噛み締め、俯く。「急に私と母上への態度が変わってしまったんだ。ずっと優しくていつも柔らかく笑っていたあの姉上が、あんな風になるなんて、絶対におかしい。姿が見えなくなったあの数刻の間に、何かあったとしか思えなかった」 円卓の下で握られた拳が、固く握られる。「玉兎に戻ってからも部屋に籠りがちで、時折夜に出かけることがあったが、気分転換に外に出ているのだと思っていた······けれど、その頃から都で少女の失踪事件が起こり始めて、私も母上も気が気ではなかった」 関りはないと信じていたが、蘭明の言動がふたりを一層不安にさせたのだった。「姉上は人形を作るのが昔から好きで、自分で衣裳も縫っていた。私や
その一部始終を目の前で見ていた清婉は、両手で口を覆い、息を殺してその場を去る事しかできなかった。それは蘭明が戻ってくる前に、無明に告げられた約束のひとつだった。 声を出さず、物音を立てず、何が起こっても決して何もしてはいけない。(必ず、助けに戻ります!) 扉の向こう側へと消えてしまったふたりを確認し、清婉は焦る心をなんとか抑え、ゆっくりと扉を開けて廊下へと出る。すぐ近くに、警護の術士たちが何人かうろうろとしていた。その横を通る時は、本当に心臓が止まるかと思った。 符の効果がいつ切れてもおかしくない。 今は誰にもその姿が見えていないようだが、無明がああなってしまった今、いつ晒されるかもわからないのだ。 しかし、警護の術士たちは清婉が横を通っても誰も気付くことはなく、虚ろな眼差しで立っている。その目は、まるでさっきの無明のように、なにも映していないようにも見えた。(無明様。どうか、無事でいてくださいっ) 祈るように、白い守り刀を胸元に貼られた符ごと握りしめる。言われた通りに門の方へは行かず、低い塀を見つけてよじ登り、どうにか誰にもバレずに邸を脱出できた。 竜虎たちは都の市井の宿にいるはずだ。夕刻近くまで回っていた限り、公子たちを泊められるような立派な宿は、あそこしかなかった。 月明かりが照らす広い路を駆ける。宿まであと少しという所で、清婉の視界にひとつの影が映り込む。思わず足を止め、前を見据えれば、酔っぱらっているかのようにふらふらと路の真ん中を歩く人影が見えた。それはどんどんこちらに向かってきているようにも思える。(あ、あれは、······なんです?) 遠目でしか確認できないが、明らかに不審な影であった。後ろに下がろうにも前に進もうにも躊躇ってしまう。 歩いていたその人影が、清婉の姿に気付いたのか、俯いていた顔をゆっくりと上げた。 そこには、優越感に浸るようなうっとりとした漆黒の目があり、にたぁと口元が大きく歪められた。開いた口には尖った牙があり、明らかに清婉を捉えているようだった。符の効果はおそらく、もう切れているのだろう。 あまりの恐ろしい雰囲気に、足が竦んで身動きが取れなくなる。ただ直立不動に立ち尽くす清婉は、声を殺したまま恐怖で身体が固まってしまった。 その人影は、人ではなく、邪悪な顔をした妖鬼だった。黒い衣はぼろぼろで、袖







